○三原山 日本で最も古い噴火記録(日本書紀)をもった火山で、伊豆大島と姉妹島のハワイ島キラウエア火山、イタリアのストロンポリ火山と並んで世界三大流動性火山として有名である。海抜764m(昭和61年の噴火後)、富士火山帯に属し、典型的な三重式成層火山で、安永6年から同8年(1,777〜1,779)にかけての大噴火と昭和25・26年の噴火、昭和61年11月の噴火によって現在の内輪山から火口原の姿ができた。昭和61年の噴火では、三原山の北西斜面上及びカルデラ床に4筋の溶岩流が形成された。さらに、この噴火ではカルデラ床で北西一南東方向の割れ目噴火がおこり、大量の溶岩を噴き上げ、北方と北東方に溶岩が流出し、火口近くに降り積った火山弾、スコリアによって噴石丘群を形成している。
○裏砂漠 三原山の外輪山と内輪山の間に広がる火口原は、表砂漠と裏砂漠とに分けられ、山頂口に近いところを表砂漠、火口東方の火口原を裏砂漠と呼んでいる。表砂漠はそのほとんどが昭和25・26年の噴火で流出した溶岩群で覆われているのに対し、裏砂漠は火山灰と砂の平原が見渡す限り広がり、月の世界を思わせる雄大でエキゾチックな奇観を呈している。
○源為朝の館並びに記念碑 1156年保元の乱に敗れた為朝が、伊豆大島に流されたとき住んでいたと伝えられる館跡で、元町港の近くにあり、通称「赤門」と呼ばれている。3,000坪に及ぷ庭内には、赤門をはじめ、為朝神社、宝物館、植物園などのほか、戦いに使った物見台や抜穴なども見られる。後に代官屋敷になったところでもある。また、すぐ近くの長根浜公園には、島代宮の娘を妻とし、豪勇を誇り伊豆諸島を制していた為朝が、ついに領主伊豆狩野介工藤茂光に攻められ自刃したという波乱に富んだ一生を記した碑がある。
○赤穂義士遣児の墓 元禄16年(1703年)赤穂浪士に切腹を命じられるとともに、その遺児は遠島処分となり伊豆大島には4名が流され、宝永3年(1707年)の赦免まで在島した。その中で間瀬久大夫の子・定八は赦免の前年に病死し、元町共同墓地にその石碑がある。
○乳ケ崎 伊豆大島の最北端にある三角形の丘状をした岬で、この付近は暖流と寒流が交差し、潮の流れの早いところで、昔は船頭たちが海の難所として恐れていた。基部は岡田玄武岩類で形成され、伊豆大島が最初に海上に噴出した岡田火山の一部がこのあたりで、伊豆大島誕生のルーツともいえる所である。また、源為朝が豪弓を引きしぼり、一矢で追手の軍船を沈めたと伝えられる古戦場でもある。岬から眺めると富士山をはじめ、房総、三浦、伊豆半島の山々の景観は素晴しく、一方、ここからの三原山方向の大パノラマの雄大な風景は絶景である。
○役行者窟 泉津東部の櫛が峰の下の浜にあり、玄武岩質の大洞窟である。文武天皇の時代に、稀代の神通力をもって知られた役の小角(えんのおづぬ)が流されて、ここに住み修行したと伝えられる。中には、小角(おづぬ)自作と伝えられる像が安置されており、昭和3年3月都の旧跡に指定されている。 (注=大洞窟は入口の落石で現在立入禁止です。行者祭は毎年洞窟脇の行者浜海岸で行われています。)
○龍の口 (石器時代遺跡) 野増南方海岸地にあり、溶岩流の下から推定BC3,000年以上のものといわれる黒曜石・縄文土器・獣鳥骨片等が発掘され、当時すでに島に人が住んでいたことを物語っている。昭和3年3月都の旧跡に指定されている。 (注=遺物埋蔵の地層が崩れ危険のため現在立入り禁止です)
○鉄砲場の岩陰遺跡 泉津漁港の北の端にある鉄砲場と称する海岸に、大古の原住民の住居跡がある。岩陰を利用した縄文時代中期の初頭(約5,500年前)の住居跡で、大島のようにしばしば噴火の降灰にみまわれる所にある特殊のものである。間口8.2m、高さ4.9m、奥行き6mで、平面は半楕円形を呈し、縄文土器石器及び石器原石(黒曜石)等を出土している。日本では珍しい洞窟住居の遺跡で、昭和33年10月7日都の史跡に指定されている。
○武田信道及び家臣供養塔並ぴに屋敷跡 大久保長安事件に連座して、元和元年(1615年)伊豆大島に流された武田信玄の孫・信道夫妻並びにその子信正が、家臣9人を伴い野増に居住した。このときから村の開発につとめ、野増の古先祖「七人様」と称されて住民から尊ばれ、その居住の地(野増6番地)を今も「七人様屋敷」と呼ぴ、石垣をめぐらした中に小祠2つを奉安している。野増和田墓地内は「野増古先祖七霊石塔」、「為当村開発七人霊菩提也」と刻まれた供養塔が祭られている。昭和31年3月3日都の史跡に指定されている。
○伊豆大島灯台 岡田乳ケ崎の北に接する風早崎の先端にあって、大正4年4月l日から点灯を開始した。位置は、東経139度22分30秒、北緯35度47分47秒で第4等灯台、光はせん自色で毎18秒時を区切り、12秒に三連せん光を発し、明るさは12万5干しょく光、光達距離は27海里、高さは水面から灯台まで112mである。霧笛・無線の信号所も備え、周囲のながめは美しい。
○桜株 泉津の南東字福重の山中にある大島桜の巨木で、高さ3.6mの箇所から13枝が派生した高さ13m、目通り8.2m枝張り東西27.9m、南北11.8mにわたる。樹令800年以上、桜としては我が国随一の古木といわれ、昭和27年3月29日国の特別天然記念物に指定され、現在、都では唯一の国の特別天然記念物となっている。
○潮吹の鼻 泉津南東1kmの海岸にあり、激浪の押し寄せる強さに応じて海水を10m前後も高く吹き上げる様は偉観である。房総、三浦半島を遠くに望む景勝の地にあり、昭和14年12月2日都の天然記念物に指定されている。
○都立大島公園 泉津東部一帯の緑地約572haの大規模な都立公園で、アルダプラゾウガメ・フタコプラクダ・ラマ等51種536点の動物を飼育している。園内にはトベラ・シャリンバイ・イソギク・オ才シマハイネズ等の美しい海浜植物群落(昭和26年6月9日国の天然記念物指定)が見られ、近くのシイノ木山には幹まわり5m、高さ16mに及ぷシイの巨樹20数株の群そう(昭和26年6月9日国の天然記念物指定)があり、極めて壮観である。また、園芸品種を集めた植物園・椿資料館・野外劇場・海岸遊歩道なども園内にあり、快適な自然の味を満喫することができる。 昭和61年6月1日、海のふるさと村が開園された。
○シイの巨木・イヌマキ群生等 伊豆大島で最も古い野増大宮神社の境内にはシイの大木がうっそうと茂っており、差木地春日神社の樹令2,000年を越すイヌマキ群生(昭和33年10月7日指定)及び観音堂の大クスとともに昭和14年12月2日都の天然記念物に指定されている。
○波浮港 開港の記念碑と秋広平六翁の墓 波浮港はかって「波浮の池」と呼ばれる火口湖であったが、元禄16年(1703年)の津波で火口壁の一部が決壊して海に通じた。その後、上総国の人秋広平六は幕府の許可を得て港の出入口を堀り下げ、寛政12年(1,800年)に完成させ、今日の良港に生まれ変わらせた。碑は港から上の山に通ずる石段の途中に残っている。ここからの波浮港のながめはことにすぐれている。また、平六翁の墓は同地区の妙見寺境内にあり、昭和3年3月都の旧跡に指定されている。
○筆島 波浮港の北東約3kmにあり、海中から高さ30mの玄武岩の岩が突出し、形が筆の穂先に似ているところから筆島と呼ぱれ、古来御神体として敬われた。対岸は高さ200mの断崖が連なり壮大な海岸風景を見せている。昭和15年2月都の天然記念物に指定されている。
利 島(伊豆大島の隣の島) 利島は、大島の南方約28kmの海上にあり、周囲約8km、面積約4.12kmの小島で、海岸は断がいが続き平地はなく中腹北西寄りに集落がある。玄武岩質から成り立っているが、表土は伊豆諸島中で最も地味が肥えており、全島ほとんどが“つばき”でおおわれ、かつお鳥の群せいが見られる。地形の特色は、コニーデ状断がい地形である。
○宮塚山 海抜507mの死火山で、山麓の遺跡は縄文時代すでに住居のあったことを物語り、七島中最も鮮明多様な先史時代の資料を提供している。
○堂山神社の古鏡 本社所蔵の銅鏡18面のうち10面は室町時代の古鏡といわれ、いずれも都の文化財に指定(昭和33年10月7日)されている。この一小島からこのような多数の古鏡が発掘されたことのうらには、何か歴史のなぞが秘められているようである。
○大石山の遺跡 大石山からは、縄文中期(今からおよそ5,000年前)のたて穴敷石住居跡が発見され、称名寺土器(BC2,000年頃)をはじめ同時代の石器・骨等が多数発掘されている。
○ケッケイ山の遺跡 大石山南方西山地区に、通称ケッケイ山がある。ここにも住居跡が発見されたが、これは弥生時代中期(今からおよそ2,000余年前)のたて穴住居跡といわれ、須和田式に似たつぼ形、鉢形土器などこれまた多数出土している。ケッケイ山遺跡の出土品のうち特に注目をびくものに鉄器〔もみあと〕のついた土器がある。鉄器は腐しょくがはなはだしいためか、各島にも未発見のようであるが、かっての金属器時代には石器・銅器にまさる貴重な加工利器であった。〔もみあと〕土器は、弥生期農耕文化の伝ぱ経路およぴ島々の農耕社会のあり方を推考するうえに重要な意義をもっている。昭和33年10月7日都の史跡に指定されている。